タイ・チェンマイと中国のシーサンパンナの旅

5日目  1024()晴  スリオンホテルに1泊


  スリオンホテルのカウンター

      ホテルの部屋
朝から荷物の整理しているとセーフテイボックスのキーが見つからない。2時間ばかり捜して大変であった。枕もとのスタンドの下に挟んだ事を思い出しようやく出てきたのでヤレヤレである。若し紛失したらぺナルテイとして3,000バーツ(¥9,000)取られる所だった。これはホテル協会で決められたことで、予備キーは一切無いからこのボックスは本キーが無ければ破壊しなければならない。そため上記の費用がかかるらしい。これからは気をつけなければならぬ事柄である。この件でランベルの新人の野沢君に通訳などの件でお世話になったので喫茶店でお茶をご馳走し話する

彼(野沢君)の話によると彼は30歳で2ヶ月前にこの会社ランベルに就職したとのこと。付き合っている彼女は彼より2歳年上であり(彼曰く最初彼女にあったときは5歳ぐらい若く見えたが実年齢は後で知ったそうである。)チエンマイでタイの彼女と所帯を持ちたいとのこと。彼にとっては日本に居るよりこちらチエンマイの方がのびのびと生活が出来楽しいと話していた。それと好きな彼女の傍だから当然の事楽しいのだろう。こちら女性は全身全霊で男性の方に寄りかかってくるようである。だから男にもそれを要求してくるのだろう。今度も中国の雲南を昨日まで1ヶ月間回って今日着いたのことで長谷川さんに中国の土産を持参していた。3人で楽しい旅のお話の時間をもてて幸いだった。

日本に帰ったら、以上の長谷川さんと橋口さんの2人のHPを見るのが楽しみである。

また今日は此れまで泊まっていたスターホテルが満杯とかで24日だけ系列のスリウォンホテルに転居させられた。此処は値段の方も1000b以上の4星ホテルで設備、広さ、サービスは格段に違うようであるが、ホテルの都合だから当然こと差額支払いは無し。当初から慣れ親しんだスターホテルがなにか恋しい。やはり貧乏性なのであろうか?床が替わった所為か何かゆっくりと眠れないのである。1晩中起きているような感じである。
明日はまた見知らぬ中国のどこかのホテルである。

  6日目   10月25日() 中国雲南省景洪市へ


   中国 シーサンバンナ空港

今日は昼の1時に中国の景洪に向けて出発するのである。3泊4日の旅の用意をする。パスポート、切符、は肌身につける。物は試しである。
今後旅の荷物の軽量化の為にもやってみる価値はありそうである。また重いパソコンも置いていこう。
(此れは後でかなり後悔する羽目に陥ったのである。)重いし、もって歩くにはかなりの労力がいるのである。後の荷物は全てスターホテルに話して預ける事にする。さて此れからが34日の中国雲南シーサンパンナのたびに出るんだといき込んでチエンマイ空港に急ぐ。

空港ではとりあえずタイ出国手続きをして小さな
70人乗りくらいのプロペラ機に搭乗。
1時間ぐらいのフライトで中国のシーサンパンナ空港に到着。

シーサンバンナ空港はとても外観は立派なものではあるが降りてみるととても静かな地方空港である。まずなにかしら活気がないのである。乗客70人の私たち以外に45人の入国管理官と空港職員だけで森閑とした空港である。かなり長い長い入国手続きを経て出されてみるとわたし1人だけ取り残されてしまった。後の乗客はほとんどタイからの団体旅行者達でバスに乗って何処かへ行ってしまったのである。

此れは最初の目論見とちょっと違い、待つこと15分ぐらい経った時1台のタクシーが着てくれたのでホッとする。そのタクシーの運ちゃんと片言の中国語の賓館(ホテル)を連発すると判ってくれたようで町のほうに走り出したので、とりあえず安心。ホテルも予約せずにともかく飛行機に乗る男はこれ極楽トンボなのです。15分ぐらい走ると景洪の町に入る。中国では最南端のラオスに近い国境の町である。              想像していたよりもかなり大きな町である。建物も堂々としたものでビルデングが立ち並び道幅もかなり広く両脇には大きな緑地帯があり大きな棕櫚や椰子の木が覆い茂っていた。タクシーが連れて行ってくれたホテルはシーサンバンナーホテルで官庁街のど真ん中にそれはあった。大きな庭園のような中に10棟ぐらいの宿泊所が建っていた。


     空港からのタクシー

  中国のパンナホテルの正面


  パンナホテル4号館の門前

ホテルのカウンター、彼が明日の案内役

クロークでチエックインすると4号館の2階407号を宿泊所と指定され、荷物を持って広い庭園を手渡された地図を頼りにたどり着くと名前が望江亭4号館となっていた。メコン川を望める館の意味なのだろう。このホテルは3日間宿泊で720(1万円)払う。朝食つきである。

幸いこの部屋には三菱製のクーラーが入っていたので暑い日中は重宝した。かっては窓からはメコンの川の流れが遠望できたのだろうがその方向には大きなアパートが立ちはだかっていた。夕方日が落ちてから川のほとりまで散歩するが、メコンの流れはこの辺ではまだ上流なのであろう川幅は500mくらいであった。流れは速く黄色く波たっていた。この川の源流はヒマラヤの北側か?それから延々とチベットを流れくだりそれからは周囲の支流からたくさんの水を取り込んでやがて大河に成長し、この先はラオス、カンボジヤ、ベトナムを経て南シナ海に流れ込むのだろう。

川辺では釣りをする人、大きな木の下でトランプやマージャンを楽しむ人たちがゆったりと憩っていた。

ホテルに帰り今晩の夕食でおいしい所を聞き出し、近くの食堂を訪れる。ここは餃子がとても美味しく焼き飯なども捨てがたいものであった。

此処は個人経営の店らしく女主人が美人で愛想良く、料理が美味しいのでかなりの客が入っているようである。6卓しかない小さな食堂だったが気に入ったので3日間夕食は此処にした。ホテルの食堂は朝食だけにしたのは夕食を戴くときはなにか温かい庶民の人情が流れるこの店が気に入ったのである。ホテルの食堂は朝食を食べるのであるが若い女の子のサービスが何かぎすぎすした感じで筆談など無視であるし、何よりも値が高い。それに反しこの店は値段も腹いっぱい食べても15(\210)は超えなかったのも気に入った所以かも知れない。片言の中国語と筆談でほとんど意思は通じた。

此処の19歳の娘が可愛いので写真を撮ったら、ネガが欲しいと女主人から頼まれた。最初ネガの漢字“洗“がわからなかったが実物を見せられネガであることを理解したが今度は自分のデジタルカメラに“洗がない事を説明するのが大変だった。

こんな風にして中国1日目は過ぎた。さて明日の観光のことをホテルのカウンターに相談すると、27歳の彼は明日は休みだから案内してやるとのこと友達が運転するから車を借りてきて3人で行くことを提案される。

其の費用は丸1500(\7,500)昼食つきだという。要するにアルバイトとして考えているらしい。それならば値切らなければと交渉する事30分。結果400(\6000)で手を打つ。

明日約束した出発時間は早いし昨晩はあまり寝ていないので早目だが7時に就寝する。

     7日目  1026() 少数民族の朝市見学等のツアー 

タイ時間では6時だからまだ薄暗いのにここは北京時間だからもう7時なのである。(聞くところによるとこの広大な中国では時差がないようである。中国全土すべて北京時間が標準だとか。中央集権体制の一端を見た感じである。


運転手 書さんの家
慌てて朝食も摂らずに車に乗り込み今日のツアーにそそくさと出かける。ホテルの受付の曹君27歳が今日の案内役である。運転者が書君42歳である。私1人のため2人係りで案内してくれるのである。まだ薄暗い市内を通過したらものすごく広い舗装道路に出る。ただ舗装しただけでセンターラインもなければガードフエンスもない道をひたすら山のほうに向かって走り続ける。(これは後ほど聞いたのだがこの道は有事の際、航空機の滑走路になるとか)出来立ての道なのだろう途中先行き工事中になり迂回路を走るのだが,この迂回路が此れまた大変なのである。砂利も敷いていない田舎道をトラックやあらゆる車が走るものだから月のクレータ様な穴ぼこだらけの道になっているのである。この道を時速10kmぐらいで走るのだが内臓が外に飛び出しそうな感じの揺れなのである。それが30分も続くと来たことを後悔する。今日のツアーの先行きに暗澹たる思いにもなるのである。やがてまた舗装された道路に出るとヤレヤレである。

書さんの家での昼食

やがて道は山腹をうねりながら高度を上げていくと山岳独特の濃霧の中につっこんでいく。丁度飛行機が雲海の中に突っ込んでいくのに似ている様な感じである。それと同時に気温が急激に下がってきたので長袖を重ね着するようになった。走る事2時間。ようやく最初の目的地少数民族の朝市にたどり着いた。           聞くとこの地名はMan gon(パソコンには漢字が無い)と言うそうである。建物の軒下や屋根付の広場のようなところでいろいろの物産を地面の上に広げての市場である。その他に衣類とか家具のような商品はそれなりの店舗で販売しているのだが野菜など食品の類は青空市場である。魚肉とか直接太陽に当てると悪いものは屋根だけの建物の下での販売である。いろいろ服装の違う少数民族の人たちが物と金と交換する様子は言葉は分からないがそれなりに面白いものである。そうした混雑した人ごみの中を色鮮やかなピンクや黄色や青色の服を着た娘たちが嬉々として行き交う様はさながら珊瑚礁を泳ぎ回る熱帯魚のようである。

     市場を歩く女性たち

この市場で長崎から来た同年配の一人の旅人と会う。彼の話によるとこの場所で日本人の私に会ったのは2番目だそうで、彼はここが好きで毎年ここへやって来てロングステイしているそうである。宿はこの近くの民宿のようなところが居心地がよくって、彼にとってここが故郷のような感じがするそうである。聞くと彼は長崎から船で上海〜昆明径由景洪まで鉄路〜景洪からは陸路バスで当地に来たので、はるかな旅の果ての地に来た感じだそうである。しかし彼にとってはここが桃源郷なのだろう。わたしの来たルート関空〜バンコク〜チエンマイ〜景洪〜当地の話をすると、次回はこのルートを試してみようと言っていた。

又この市場で特筆すべきものを発見したのである。いろいろな産物が取引されているものの中に山岳民族のおばちゃん一人がお櫃のようなものをふたを開けて黒いご飯のようなものをシャモジで掬いビニールに入れて販売しているのである。私も横で見ながらどんな味がするものか1口テストさせてもらったらこれがまことに美味しいのである。朝飯抜きで悪路を2時間も走った所為か おなかが空いていたのだろう、さっそく御握りくらいの量を¥7ほどでいただき、食べながらの朝市の見学である。噛めば噛むほど甘くなるのである。色は真っ黒だがもちもちとしたおこわのようであり中に甘栗の砕いたものも入っているようである。たぶんもち米なのであろう。文献で読んだような感じがするがこれこそが私たち先祖が愛した赤飯のルーツかもしれない。あまりにも私の口に合うので食べ終わってからお代わりを買いに行きそれをリュックの中に収納。ホテルに帰ってからその後2日かけておやつのように食した。

12時になったので食堂に連れて行かれるものだとばかり思っていたら近くの石造りの立派な都会風の新しい家に案内された。この辺ではすべて独特の木造建物が密集する集落だがこの家だけ石造りだった。これが運転手の書さんの実家だった。ここには15歳の娘さんと74歳のおじいさんと70歳のおばあさんが居て歓待してくれた。

ドライバーの書さんは41歳で1児の父親で、現在の住まいは景洪市で時々この実家に帰っているらしい。ここで驚いたことにこの書さんがコンニャクや豚肉の塊を市場から買ってきてこの家で料理を始めるではないか。無論この家の娘さんも手伝うがあくまでも彼が料理長なのである。言葉がわからないから推察だが彼はプロだと思った。あっという間に10品ほどの料理が作ったのである。手際がいいのである。料理を始めてから40分間ぐらいで料理が出来たから驚き。中国料理だからほとんどは炒め物である。料理を竹で編んだテーブルに並べ6人全部で会食であるが、これがとても美味しいのである。米もジャポニカ米で口にすんなり入った。ほどなくしておばあさんが1階の自分の部屋からお櫃のようなものを抱えてきて開けて食べろというのでこれが白いおこわだった。今日は白と黒のおこわ攻めである。やはり比べてみると味はクロの方に軍配があがった。

ここの老夫婦は穏やかな感じの日本の田舎のどこにでもいる好々爺婆と言った印象受けた。その後午後からはもっと南に下がり八角堂というこの辺ではかなり有名なお寺を訪ねる。まさしくタイにあるお寺そっくりだった。そのことからもこの辺はやはりタイ族が多いのだろうと推察できた。

帰り道、本道をはずれてアカ族の集落も案内してくれる。20軒ばかりが険しい山間の中にひっそりと生活しているようであった。わずかな平地に野菜を植えたり山の斜面を段々畑にしてとうもろこしの栽培で暮らしているらしい。庭にはとうもろこしを乾燥するため所狭しと干してあった。

最初このアカ族の爺さんがえらい剣幕で怒った風だったが、ドライバーの書が何か話すと素直に家の中にも案内してくれた。書さんの実家とは比べようも無く貧しい感じであった。帰路もところどころ悪路と戦い無事ホテルに着いたのは4時を回っていた。

案内役の曹さんは28歳の独身男性でなかなかの勉強家である。昆明の大学を受験するとかでものすごく揺れる自動車の中でも英語の単語帳を見て記憶している青年だった。昔の自分の姿をそこに見たような気がした。しかし彼の英語の発音はかなり悪く時々通じないので筆談である。(これは私のヒヤリングが悪いのかも)明日も観光案内させて欲しいと言っているが今日で終わりにしょうと考える。明日は自分1人でまわってみょう。

1日の案内が終わり約束どうりの400元(¥6000)を渡す。明日も案内したいとしきりに言うが今日の悪路で疲れたから明日はホテルで寝ていると断る。

夕方昨日の食堂でまた15元(¥225)で蒸し餃子とチャーハンや汁物で夕食とする。美味しいのだがほとんど残してしまう。胃袋が小さくなったのでそんなに多い量は受け付けない。こんなとき量の少ないチエンマイ料理が懐かしい。

確かに今日は悪路のツアーで疲れた。夕食後シャワーを被り7時ごろ就眠する。中国2日目の夜である

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